ふるさとの家から
ルカ
談話室より
マーコ
反失連から
本田哲郎
相談室
トリヤマ
「健康相談室」より
梅田道子
2階・ともの広場
つつみ としひろ
事務室より
ふるさとの家で必要なもの
ホームページへ

「ふるさとだより」2005年6月

直線上に配置

談話室より   マーコ


 今回は談話室の利用者でこの3月にアパートに入られたAさんを紹介します。いつも灰皿やごみ箱を黙々と片付けてくれ、ふるさとの家の最後の掃除を手伝ってほしいと頼んだら「べつにええけど」とそっけなく返事をもらい、もう1年近く手伝ってもらっています。

 「アパート生活は野宿の時に比べたら最高ですね」

 昭和16年生まれ。小さい頃の事は何にも覚えてない。山陰本線の玄武洞の集落に両親と住んでいた。小学校は汽車で一駅隣の城崎小学校でした。冬は雪で汽車が遅れる時は同じ集落の子らと一緒に1時間ぐらい歩いて通った。家は農家で、農繁期や忙しい時期は学校を休んで脱穀などを手伝った。隣近所の人が手伝いに来たり、手伝いに行ったりした。

 10歳のときに母親が血を吐いて死んだ。その翌年立続けに父親も死んだ。親戚もなく神戸の孤児院のような施設に入った。だから何年も学校へ行っていたという記憶はない。

 施設に入っていた子どもはたくさんいて木造2階建ての畳の部屋に布団を敷いて大勢で寝ていた。毎日掃除や草むしりをして、後の時間は缶けり、竹馬、ベッタン(メンコ)をして遊んだ。勉強をした記憶はない。

 時たま脱走をした。子ども心の脱走はたまに外に出てみたいという感じでどっかに逃げるというのではなかった。だから職員さんが「こんな子見ませんでしたか?」と近所に尋ねるとすぐに見つかったし、ぶらぶらして自分で帰った。小さかったから殴ったり蹴ったりとかはなかったがものすごく叱られた。大きくなってきたら下の子の着替えや面倒を見ていた。ほとんどの子どもは養子に行ったり、就職したりして16歳頃には施設を出た。自分は18歳になっても仕事を紹介してもらえなかった。脱走した以外は悪いことはしていなかったけど不良に見られてたんかなあ。

 いつまでも世話になっているわけには行かないと思い、施設を飛び出した。その時はもう探されなかった。野宿をしていたら、知らない30代の男の人が食べ物をくれ、三宮に連れて行ってくれた。今のさんちかタウンのある場所に当時は立ちんぼ(仕事を求めて立っている日雇いの人たち)がたくさんいた。市場でご飯を食べさせてもらいそこから仕事に行くように教えてくれた。学歴もなく履歴書も書くことがないので面接がある仕事などは選べず、手っ取り早く現金を手にすることができるその日雇い仕事に行くしかなかった。主に輸入品の米・麦・バナナ・砂糖などを荷揚げする仕事に行った。2段ベッドのベッドハウス(簡易宿泊所)で寝泊りして生活して、雨の日は仕事がなくなるのでお金を何日も持つように少しずつ使った。その後コンクリート打ちの仕事もするようになり,主に飯場(出張)に行くようになった。兵庫県を初め和歌山、滋賀や奈良などいろんなところで働いた。58歳の時に飯場にいても仕事がなかったので西成区にきて仕事を探した。しかしここにも仕事が無く、野宿をするようになった。2000年3月に55歳以上の仕事(特掃)の登録をするため、証明を作ってもらいにふるさとの家に来た。

 それ以来5年になる。同じ飯場で働いていた人もここに来ている。風邪で体調が悪い時に何回かケアセンター(2週間の寮)に入らないかと言われたがまだまだ若いと思い断った。だけど最近65歳に近づき、長年の野宿で足腰も弱り、目も見えなくなってくるし、耳も聞こえなくなってきたので、この3月にケアセンターに入り、その後職安で仕事を探しながら生活保護を受けアパートで生活することになった。しかし今まで一度も必要としなかった住民票をアパートに移すように役所に言われた。城崎の役所を調べたところ住民票どころか本籍も見つからず、いま家裁で就籍手続きをしているが住民票がなかったらこれからどうなっていくのか不安、早く住民票ができたらいいけど。アパート生活は野宿の時に比べたら最高ですね。楽しみは特に無いけど部屋でテレビを見ている時かな。

 小さい時から人に頼ることが無く、一人が好きで、友達はできない。心を開いた人も今までいない。自分は朗らかなほうじゃなくどっちかというと暗いほう。正直言うてつまらん人生やったと思う。これまで運が無いっていうのか、小さい時に親に死なれてあまりいい人生ではない。結婚して子どもができてという風な良い人生に縁がなかった。生きていたって仕方がない、早くお迎えが来てほしいと思う時もある。でもまあ先は短いしあとはこのままいくんやろうね。