ふるさとの家から
Fr.ハインリッヒ
談話室より
仁熊
2階・ともの広場
堤年弘
相談室
マエダ
反失連のこと
本田哲郎
ボランティア ケアステーション 事務室より
藤井
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「ふるさとだより」2003年6月

直線上に配置

2階・ともの広場     堤 年弘

 冬場は空席が見つからず、お互い肩が触れんぱかりに突っ立ったままテレビを見、暫しの暖をとっていた人々も、今は季節が変わり廊下に人が溢れる事もなく、ゆったりと身体を休め、時を過ごしています。例年、冬期を中心に大販市内の公園や路上で亡くなる方が200人を越え、その大半を占めるここ釜ケ崎で、昨年に比し、数が減少したとは到底考えられません。
 かつて釜ケ崎は「寄せ場」として活気ある街でしたが、高齢化が進み、今や「失業者の街」と化しています。そのためか、収入に余裕がある時には困っている人に奢ったりする風景を余り見かけなくなりましたが、時折一寸した心づかいをする人に出くわすことが、あります。
 この街では各所で炊き出しやパンが配られたりしますが、時々貰ったパンの残りの何枚かが、詰所のカウンターにそっと、置かれていることがあります。このパン、貰っていいでしょうか、と言う遠慮がちの声に気づき、持ち主のいないのを確かめ、どうぞ、と代理人として言います。2人ぐらいの人が、持ち主でもない私に礼を言って、トースターで焼き、空腹を補う事ができたのです。自分用として後に取って置かないで、今お腹の空いた誰かに役立てれぱ、と置いていく。厳しい環境の中にあっても、このような生き方をする人がいるのです。
 ふるさとの家は午後6時終了の後、わずかな人に手伝って貰って、掃除に取り掛かります。そのなかの一人Iさんは8ケ月以上もずっと来てくれています。生活保護を受ける手続きでお世話になったからだ、と言うのです。こんな下働きを続けるのは大変なのに、本当に義理堅いと感心しながら感謝しています。Iさんは最近、25年ぶりに母親、そして弟妹に会われました。過去の事は過去の事として、これからも顔を見せるようにとは言われたのですが、長男として果たさなかった悔いがあり、一族の培ってきた平和を乱さないためにも、独りで生きていく決心をしたそうです。若い頃は旋盤工として腕を上げていたのですが、会杜を辞めざるを得なくなり、その後は.日雇労働者として鳶のてもと(助手)等をしたり、特に遺跡堀の仕事では、数年間、ベテランとして関西一円を隈なく掘って廻ったようです。しかし年を取るにつれ、日雇仕事もなくなり、15年前位からは梅田の地下界隈で野宿をせざるをえなくなりました。Iさんは、気楽に生きようと野宿生活を続けていた、と言いますが本当は大変な事だったと思います。
 釜ケ崎、その周辺に住む人々、この街に係っている人々とは週2回午後からやってきて、夕刻に古都奈良の町に帰り着く、そんな関わり方をしている一ボランティアの報告です。