「ふるさとだより」2002年11月

直線上に配置

「ふるさとの家から」 Fr.ハインリッヒ
「談話室1」
「談話室2」
「2階・ともの広場」 堤 年弘
「1年間ボランティア」 小澤 尚史
「缶のつながり」 豊島治
「相談室」 マエダ
「ケアステーションふるさと」 浜口 功雄
「ケアステーションふるさと」 堀部 敬子
「反失連は野営闘争中」 本田 哲郎
「事務室より」
「ふるさとの家で必要なもの」

「ケアステーションふるさとの活動」     堀部 敬子

 釜ケ崎の労働者の中には、高齢で働けなくなり生活保護を受けてアパート碁らしをしていても、痴呆のため置かれている状況がよく理解できず、働かんとドヤ代が払えないと、毎日のように労働センターに仕事を求めて通う方がいます。
 そんな中のお1人、71才のFさんは、残して来た家族のこと、兄弟のこと、故郷のことを、出て来た時のまま記憶の中にとどめ、いつも部屋で物思いにふけっていられます。いつか故郷に帰りたい、そういう気持ちを察してせめてお墓参りができれば、ということになり旅行を計画しました。
 出発の1ケ月前、家を継がれている弟さんに電話をかけました。電話の向こうで静かに怒りを抑えながら、「ちょっと待って下さい。兄がほんとうに帰りたいと言っているのですか。そんなこと言える訳がありません。この小さな田舎で、我々家族が、兄の残して行った家族を気づかいながら、どんな思いで暮らしてきたと思いますか、会うわけにはいきません」と。
 数日後、突然電話かけたことのお詫ぴの手紙を書きました。そして、万に一つの思いを込めて、その地に立つ日付だけを付け加えました。
 出発したその朝、弟さんの気持を察しられたであろう奥様から、「自分の独断で、そして内緒で、仏前にだけ参らせたい」と、切羽詰まった電話がふるさとの家にかかりました。ちょうど13回忌だというお母様の仏前に、手を合わすことができ、近辺を一緒に歩いて 下さったそうです。旅行から帰ったFさんは相変わらず朝5時に労働センターに通い、今日も、お金にならなかったと、アパート管理人の奥さんに謝られます。
 3年前、Kさんに、田舎に電話するので手伝ってほしいと、テレホンカードを差し出され頼まれたことがあります。自分の声だと切られてしまうということでした。Kさんの姉さんがでられ「その子に言って下さい。こちらが必死で捜している時は何も言ってこないで、今さら、どこに帰って来るんですか。私達も老いて、子供達に気兼ねして暮らしているところへ!!」
 Kさんのお姉さんの声と、静かなFさんの弟さんの声、みんなそれぞれ待っていてくれた時があったんだ。ちょっと帰りそびれただけではない重さを感じました。  『快楽な日々もあったでしょうが、想像を絶する孤独の中、後悔とざんげにさいなまれ た日々を過ごされたことと思います。罰は十分、受けられたのではないでしょうか』と手紙に書きました。
 故郷の方々とFさん、それぞれの年月を経て、仏前で手を合わせたことすら理解できないFさんが、この釜ケ崎に元気で暮らしているという現実。今回のことは、家族の方々の心を乱しただけなのか、答は見つかりません。
ふるさとの家で立ち上げたケアステーションで、Fさんの生活を毎日、見守っています。